9月が始まった。
子供たちも夏休みが終わり学校へ通い出した。
朝、自宅を出ると台風の影響もあってやや風が強かったが、その風もちょっと秋のにおいがした。地面を見ると前よりも確実に日の影が長くなっていて季節が進んでいることを実感する。
この夏に近所の書店の一つが閉店してしまった。そしてもう一つの書店も9月に閉店予定らしい。
最近は本を電子書籍で読むことが多く、書店に足を運ぶ機会も減ってしまったことは確かだ。だがちょっと時間があるときに立ち寄ったり雨宿りの場所としても役に立っていたので、なくなってしまうと結構痛い。
そもそも本を読まない人が増えていることもある。電車の中でも本の代わりにスマホの画面を眺めている人の方が多い。
本が紙から電子化されて便利になっているにもかかわらず読む人が減っている。本から得られる情報よりもリアルタイムな情報に引き寄せられるのだろう。
テクノロジーによって人はもっと楽になって自分の時間が増えるようになると思われていた。
だが実際はどうか。
なぜか時間に追われ、ますます忙しくなっている。
テクノロジーによって新たに生み出された時間は別のことにすぐさま埋められてしまい、かえって時間がなくなってしまっている。
仕事、家事、育児だって昔より格段に便利な世の中になっているはずなのになぜこんなにも慌ただしいのだろう。何かおかしいと薄々気付いているにもかかわらず、スケジュールをこなすことでいっぱいになる。
しかも何もしないでいるということができない。何かしていないといけないという強迫観念がどこかにある。常に手帳のスケジュールがびっしり埋まっていないと不安になる人もいる。
生成AIが発達して人々の生産性は上昇するのだろうが、きっとそれによって新たに何かをするためにさらに時間を埋めるのだろう。
そうした時間の問題を解決するためにお金が必要とされる。
そしてそのお金を稼ぐために時間を差し出している。
堂々巡りだ。
ここで重要なことに気付く。
お金は増やすことはできるが、時間を増やすことは難しいということだ。
いくら健康に気を使っても、いい薬ができたとしても、時間は確実に進み寿命は失われていく。そして失われた時間は決して戻ってこない。
人生の最期に後悔が残るとしたら、時間の使い方を誤ったということだ。
どうでもいいことに時間を使い、本当にしたかったことに時間を使わなかったことに後悔する。
街では今日も多くの人が歩きながらスマホの画面を眺めている。
きっと風のにおいや影の長さの変化などに気を留めることなく時間が過ぎ去っていくのだろう。