贅沢とは、世間的には必要以上に金銭や物を使うことを意味している。贅沢できれば気分がいいし、きっと幸せに違いないと多くの人は思っている。
そうした贅沢をしたいがために人はお金を必要とする。そのお金を稼ぐためにせっせと働いたり、お金を殖やそうとして投資をしたりする。そして実際に贅沢をしている人を見ると、自分もそうなりたいと願い一層お金に執着するようになる。
だが、必要以上にお金を使って物事を消費することが本当に幸せなことなのかというと甚だ疑問だ。
自分が本当に楽しいことや幸せに感じることに費やすお金というのは案外たいしたことなかったりする。
私は本を読みながらいつの間にかウトウトしてしまうようなゆっくりした時間を過ごすことがこの上なく好きだし、サッカー観戦で贔屓のチームを応援してその勝敗に一喜一憂するのが楽しい。こうしたことには大金は必要ないのだ。
そうはいっても贅沢したいと思う人もいるのだろう。贅沢することこそ幸福だと。
でも贅沢するに必要なのはお金だけではない。
贅沢する時間も必要となる。
贅沢するお金を稼ぐために時間を使って贅沢する時間がないというのなら本末転倒だ。お金が十分稼げたと同時に病気になったりして、結局贅沢できないということもありうる。
そう考えると、本当の贅沢というのは時間を自由に使えるということだ。
時間は誰に対しても平等に流れて後戻りできない。そして生物には寿命があり、長さに差はあっても限られていることは共通している。時間という減少していく資産を今この瞬間も使い過ごしている。
人間は高度なテクノロジーによって余りある時間を手にするはずだった。だが、なぜか時間に追われ、ますます忙しくなっている。生産性を上げろと言われるが、それによって生み出された時間はきっと別の何かによって埋められてしまい、さらに追い立てられるようになっていくのかもしれない。そうなると時間の価値というのはどんどん増していく。
手帳にぎっしり予定が埋まっているより、そんな手帳を必要としない状態のほうがいい。
自由に使える時間をどれだけ有しているか。
そしてその時間をボーっとしていてもかまわない。
何に使うかはその人の自由なのだから。
人生の最期に後悔が残るとしたら、時間の使い方を誤ったということなのだろう。
そうならないように過ごしたいものだ。