妻が東京オリンピックのチケット申込をした。私自身はそれほどオリンピック自体には関心がないが、妻が申込む際の「あの競技面白そうじゃない?」「これ観てみたくない?」などの問いかけに応じているうちに、不思議と観てみるのもいいかという気分になってきた。
観るとしたらサッカーがいいのだが、あいにく新しい国立競技場での試合がない。考えてみれば他の競技で使用しているのだから当たり前だ。結局、柔道や卓球、ウェイトリフティングなど普段馴染みのない競技を申し込むことにした。まあ抽選で当たるかどうかはわからないのだけど。
それにしてもチケット代は高く感じる。自国で開催されるオリンピックなんて一生に一度だろうから実際にこの目で観てみたいと思う人は多いだろうが、この値段だと断念する人も多いだろう。一方で、この際「折角だから」ということで奮発する人もいるはずだ。
「折角だから」という理由で生じる経済効果こそオリンピックの効用なのかもしれないが、所詮は一時的なものだ。オリンピックを楽しみたいという気持ちはあるものの、その後はどうなるのだろうかという一抹の不安が心にある。それがあるからイマイチ気乗りしていなかったのだ。
それでも「折角だから」という言葉は、そんな懸念を一時的になくす錯覚を呼び起こす。どうやらこの術中にはまったらしい。