経済的自由を求めるのは何故か。
それは「何をするか決まっていない時間」を得るためだ。そしてその時間を自由に使うためだ。
実際に経済的自由を得たものの、「何をするか決まっていない時間」に何もすることがなくて結局仕事のある生活に戻ったという人もいる。
また、経済的自由を得て気ままに暮らしている人に対して、もっと社会に役立つことに時間を使わないともったいないという意見がある。
社会に役立つことに時間を使うべき?
こういうことを言う人は、自分が社会の役に立っていると自負しているのだろう。そして社会の役に立っていないように見える人をどこか蔑んでいるように感じてしまう。
社会の役に立っていないといけないのか。
社会の役に立たない人はいてはいけないのか。
社会に役立つことは素晴らしいことだけど、だからといって無理強いされてはたまらない。もしそうならとても嫌な社会だ。
社会に役に立つか否か関係なく、自分の時間をどのように使うかなんてその人の自由だ。本来自由であるはずなのに社会的・経済的に制約されるから、できるだけその制約をなくしたいと願うのだ。経済的自由を求めるのは経済的なことで自由が制限されるからだ。
社会に役立つことに時間を使うのも自由だし、そうでないことに時間を使うことも自由だ。誰かを傷つけたりするのはもちろん論外だけど、そうでない限り他人にあれこれ言われる筋合いはない。「社会に役立つことに時間を使え」なんて大きなお世話だ。
社会に役に立つということは、突き詰めれば他人から評価されたいということなのだろう。でも他人からの評価を求めるからこそ傷つき疲弊するのではないのか。他人に評価されることから逃れたい人だっているのだ。
私自身、他人から評価されるより、自分で自分自身を評価できればいいと思っている。自分で自分の時間の使い方を納得できることが何より大切だと思っている。