今日の日経新聞で「核心」というコラムに『「どうでもいい仕事」の放逐を』というのが掲載されていた。
「どうでもいい仕事」というのはブルシット・ジョブと呼ばれ、「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」(岩波書店)という本が話題になった。
この本によれば、世の中の仕事の半分は無意味で必要がなく有害にすらなりうるという。
確かに、自分がしていた仕事にも何の意味があるのかわからないものがあったし、誰でも何かしらそう感じることがあるのだろう。
私は企業で経理の仕事をずっとしていたが、今思うと経理というのは良くも悪くも絶妙なポジションにある。
会社の計数管理をしなければ儲けが分からず税金の申告もできないのだから、必ず誰かがやらなければならない仕事となる。そして会社が財務的にどういう状況にあるのかを一番よく知っているポジションであり、必然的に経営陣に近くなってリストラの対象にされにくい。
だがこの仕事は簿記など会計知識が必要とされるし、それ以前に毎日こまごまとした面倒な事務作業を進んでやりたいと思う人は少ない。
ゆえに経理というポジションは、必要なのだが進んでやりたいと思わない仕事ということで絶妙な安定感を持っている。会社にとっては利益を生まないけど、いなくなると困ってしまう存在なのだ。
つまるところ、経理というのは「どうでもいい仕事」ではないのだろうが、面白みのある仕事ではない。仕事に対する熱意というのは持ちにくい。
経理という仕事に限らず、日本では仕事への熱意にあふれる社員の比率が低いという。「どうでもいい仕事」があちこちにあることもあるのだろうが、意味ある仕事であっても熱意を持って意欲的にできるわけではないのだ。
そもそも仕事に意味があることを実感できると意欲的になるのだろうか。
もともと意味を実感できる仕事というのは限られていて、ほとんどはどうでもいい仕事なのではないのか。そのどうでもいい仕事によって雇用が維持されているのではないのか。
仕事の意欲を持たせるために策を弄しても、所詮は作為的な意欲であって、心の底から湧き出る意欲とは根本的に違う。
何に興味を持ち意欲的になるかは人それぞれであって、それが仕事である必要はない。
意欲を持たせるように仕向けることこそ「どうでもいい仕事」ではないのだろうか。