投資狂日記

自由を追求するブログ

生きた証

うちの子供たちは日曜日の夕方必ず「ちびまる子ちゃん」を観る。先月あたりだったか、そのエンディング曲でいつもの曲ではなく故西城秀樹が歌った「走れ正直者」が流れたことがあった。妻がこの曲をとても好きで今でも歌詞を覚えているほどだ。それ以降は通常のエンディング曲になってしまい「走れ正直者」を聴く機会はなくなってしまった。

昨日も「ちびまる子ちゃん」を子供たちと観ていた。「ちびまる子ちゃん」の原作者もこの世を去ったが、こうしてみんなで楽しんでいる。また、楽曲も作品として遺り、それを歌っていた歌手も人々の記憶に遺る。いわば生きた証だ。

 

小説家は小説を遺し、画家は絵画を遺し、ミュージシャンは楽曲を遺す。あるスポーツ選手は偉大な記録を遺し、ある映画監督は名画を遺す。

こうした生きた証を遺せるというのは、きっと幸せなことに違いない。

 

翻って、自分は生きた証を遺せることができるのだろうか。いや遺すべきなのだろうか。遺せなかったら存在していた意義はなかったことになるのか。

なにをもって生きた証とするのかというのもある。

生物学的には自分の遺伝子を子供たちに遺したのだからそれも生きた証の一つかもしれない。このブログも削除しなければ生きた証になるだろうか。

 

もし何も遺らないとしても、最期のときに自分自身が納得した人生だったと思えるならそれでいいという気もする。

 

「ちびまる子ちゃん」のエンディングを観ながらそんなことを思いつつ、YouTubeで「走れ正直者」を検索した。