投資狂日記

自由を追求するブログ

「信じる」について考える

最近、著名人になりすまして投資を勧誘したりする詐欺広告が大きな問題となっている。

手口が巧妙になってきていることは確かだが、そもそも最初の入り口で「著名人だからということで安易に信用してしまう」ことが大きいのではないか。

 

なぜ、著名人だと信用してしまうのだろうか。

 

著名人は世の中に知られている存在だ。

だからこそ世の中から信用を維持していなければならないわけで、もし人を騙したとしたら即座に世の中に居場所を失ってしまうはずだ。

だから人を騙すようなことはしないはず。

だから信用できる。

 

こういった論理が成立する。

詐欺師はこの論理を巧妙に利用しているわけだ。

 

そもそも「人を信じる」とはどういうことなのか。

「著名人だから信じる」ということが本当に「信じている」ことになるのだろうか。

 

「信じる」ということについて、女優の芦田愛菜さんが高校生の時に述べた回答が哲学的だったことで話題になったことがある。彼女はこう述べた。

 

”裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。
見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました。
揺るがない軸を持つことは難しい。
だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました。”

 

まさに詐欺広告に引っかかる人は成功している著名人にすがりたい気持ちがあって、その人の言動らしきものに見せかけた詐欺内容に「すがってしまう」のではないか。

でも「信じる」という言葉をつかって「すがっている」だけで、本当の意味で「信じている」という状態ではないのではないか。

 

「信じる」ことと「すがりたい気持ち」は違う。その違いは「覚悟」ではないか。

「すがりたい気持ち」には覚悟がない。一方的にただ頼りたい、寄りかかりたいだけだ。

芦田愛菜さんは「揺るがない自分がいる」「揺るぎない軸を持つ」と表現したが、それだけ「信じる」という行為は難しく、「信じる」にはその結果について責任を持つ覚悟がいることなのだろう。