次女の通う小学校は昨日が終業式だった。
終業式といえば通知表。自分が子供の頃は、もらうときにドキドキしたものだ。
学校の成績というのはテストの点数だけではなく教師からの評価も混じっている。いわば他人からどう見られているかが明らかにされるというわけで、だからこそ通知表というのは心をざわつかせるものなのかもしれない。
他者からの評価というと企業での人事評価というこれまた厄介なものがある。
この人事評価というやつで、納得できている人というのはどれくらいいるのだろう。
私がいた会社では、自己評価シートみたいなものを書かされてそれをもとに上司と面談していた。この面談で上司にハッキリものを言う人などごくわずかだ。言えば待遇も変わったかもしれないが、そうならないリスクも当然ある。結局は双方穏便に済ませるという暗黙の了解ができている。だから自己評価シートなどという茶番を演じることがバカバカしくてしょうがなかった。
今の世の中では、人々は他人からの評価を異常なほど気にしている。SNSの普及が大きいのかもしれないが、他人からの評価を得るために何かをしていて、しかもそれに消耗している。それでもなお他人からの評価を集めようと躍起になって疲れ果てていて、傍から見ているとその姿はどうみても幸せそうではない。
幸せになるには、むしろ他人からの評価を気にしないことにあるのではないか。
自分のことは自分で評価して納得する。それだけで気持ちが軽くなるし、生き生きしてくる。そうすることで逆説的に結果として他人からも評価されるようなるのではないか。
他人からの評価を気にしないという点では、投資というのはうってつけだ。
自分のした投資はすべて自分の責任であり、その投資成績は自分で評価しなければならない。また、投資は他人からの評価を得るためにするものでもない。
バフェットが投資の神様と呼ばれるのは、そう彼自身が評価されたかったからではなく、自分で考え、投資行動について責任を持ち、自分で結果を評価し続けてきた結果をみて世界中の人々から評価されるようになったからだ。
投資の成績は自分自身を映している。見たくないところもハッキリしているから目をそむけたくなることもある。でも他人から理不尽に評価されるよりもはるかにましだ。