日常は何かを「する」「しない」を決める決断の連続だ。何を食べるか、どの服を着るか、本を読むのかテレビを観るのか、理不尽な上司に退職願を叩きつけるかそれともやけ酒を飲んで愚痴をこぼすのか。人生の時間が限られている以上、何かをすると決めることは同時に何かをやめることでもある。だから何かを「する」決断と何かを「やめる」決断は裏表の関係ともいえる。そして何もかも「する」ということはできない。また、時間を巻き戻してやり直すこともできない。
そういう決断を重ねて現在があり、今の自分がいる。その跡には無数の捨てられた選択肢が横たわっている。後悔とは、その捨てられた選択肢を思い返し「もしこれを選択していたら」と想像することだ。
これまでの決断が正しかったのかどうか判断するのは難しい。正しいプロセスで意思決定し決断したと思っても、運が悪くて結果が出ないこともある。逆に、何も考えずに決断してしまっても運良く結果が出てしまうこともある。結果が出なかったらといって意思決定が間違っていたとは限らないし、結果が出たからそのやり方が正しいとは限らない。時が流れ状況が変化している以上、次に同じことをしても同じ結果が得られるとは限らない。
だから決断は悩ましい。正しい方法だと思っても、そこには運の要素が絡んで思ったようには実現しない。正しいと思っていても単なる思い込みで実は間違っていたかもしれず、また、その思い込みによってかえってそれが良い結果をもたらしたのかもしれない。
さらに自分の決断は他人の決断からも影響を受ける。そういう決断の連続、決断の連鎖が積み重なり人類の歴史がつくられてきた。大抵は大きな影響を与えるのは少数の人々で、その影響を圧倒的大多数の人々が受けるのだ。
今年はその少数の人の様々な決断に翻弄されたように感じる。
圧倒的大多数の一人としては、その少数の人々がもたらす影響を考えつつ、日々決断していかないといけないのだろう。