国債は政府の借金であると同時に誰かの資産であるとよく説明される。国債が増えることは誰かの資産が増えることだから別に何も問題ないじゃないかというわけだ。
でもこれは、発行された国債が価値ある資産として誰かにすべて買われるという前提ではないのか。そしてこの前提が常に成立するものなのだろうか。
国債が誰かに買われるというのは、その国債が資産として魅力があるからであって、その魅力がなければ他のより魅力的な金融商品へと流れていく。
では果たして、日本国債というのは資産として魅力があるのだろうか。
今、アメリカの金利が上昇し円安が進んでいる。こういう状況だと、日本国債を買うより米国債を買ったほうが金利収入と円安による為替差益が期待できて儲かるかもしれない。米国債に限らず、リスクとリターンからみて日本国債より優れた金融商品があるなら、いずれ日本国債も魅力的な金利を付けなければ買ってもらえなくなる。
そうなったとしても、日本国債は最後の最後に日銀が買ってくれるから大丈夫なのか。
そもそも日銀以外の誰も日本国債を買おうともしないのなら、もはやそれは保有するに値する資産といえるのか。
誰もが資産とはいえない代物とみなしているからこそ誰も買わないのではないのか。
日本国債を日銀しか買わなくなったらどうなるのだろう。
政府が国債を発行して日銀がお金を刷ってそれを買い、また政府は国債返済のために刷ってもらったお金を日銀に返す。政府と日銀の二者だけがまるで売れないお笑い芸人のようにボケとツッコミを延々と繰り返しているようなものだ。誰も買わない国債をお金を刷って買うのだからそのお金に価値があるわけがない。あまりにもばかげているので誰も相手にしなくなる。子供のおままごとみたいなもので、それこそ刷られたお金はおままごとで使うものになるだろう。
英国ではトラス政権が大規模減税策を撤回し結局退陣することになったが、このきっかけは英国債増発による財政悪化を懸念して英国債価格が急落したことにある。市場が警告を発した形になり、市場の機能が発揮された証拠でもある。
だが日本国債はどうか。日銀が無理矢理に金利を押さえつけていることで市場を歪め続けている。そして政治家もそれに甘えている。
ユリウス・カエサルはかつてこう言った。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
今後どういう結末を迎えるのか。
できれば楽観的でありたいけど、能天気な気分にはなれない。