ずっと注目されていた日銀の次期総裁が植田和男氏に決まるようだ。
これにはちょっと驚いたし、世の中の反応もサプライズに映ったらしい。
次期総裁の本命は現副総裁の雨宮氏と言われていたが、本人は固辞し続けたという。
固辞した理由として雨宮氏は「緩和政策を実行してきた当事者中の当事者であり、客観的に公正な見直し作業ができるとは思えない」と語った。
言葉通りかもしれないし、また別の意図があるのかもしれず、心中を図ることはできない。
ただ、これまでの慣例に倣って日銀出身者が抜擢されることもなく、また財務省出身者でもなく、民間の経済学者が選ばれたことは何を意味しているのだろう。
緩和政策を修正していくのはかなり難しい作業になると予想されている。日銀出身者や財務省出身者はいわば火中の栗を拾おうとはしなかったともいえる。
長く続いた異次元の金融緩和は何をもたらしたのか。
金融緩和というのは、例えば自転車のギアを軽くして漕ぎやすくしたようなものだ。ギアが軽くなればスイスイ漕げて進みやすくなる。本来ならその間に力をつけてスピードを上げたりきつい坂道を登れるようになるべきだったが、スイスイ走れる心地よさに慣れてしまったことで筋力が衰えてしまった。気付けばゆるい坂道すら登れる力がなくなってしまい、どんどん周りに追い抜かれていく。さらに周りはギアを重くして調整しようとすらしているのに、いまだギアは軽いままだ。
政治家は「景気回復を目指す」と言いながら、実は心の中で無意識にそれを望んでいなかったのではないか。景気が悪い状態が続いている限り有権者に景気回復を訴え、低金利をいいことに国債発行によって集めた金をばら撒いて有権者の歓心を買い、それによって政治家自身の地位を守れるからだ。景気が良くなってしまえばその手は使えず、むしろ有権者に不人気な政策をしなければならなくなる。だから本気で景気回復を目指すのではなく、目指しているポーズをとる。政策の効果を検証もせず、ただやってる感を醸し出しているだけだ。
そして多くの有権者もそういう政治家を支持した。
金がばら撒かれるたびに「もっとくれ、もっとくれ!」と求め続け、「増税なんてもってのほかだ!」と罵る。
こんなことがいつまでも続くだろうか。
だが、続けるように求める圧力は相当なものになるに違いない。
そしてそのツケは将来へ回される。
そんな未来に子孫を残そうと思うだろうか。
若者たちが将来子供を持ちたがらないのもある意味当然なのかもしれない。
私には子供がいるが、その将来が気掛かりでしょうがない。
子供たちのために何ができるか真剣に考える時が来ていると思う。