子供たちは夏休み真っ最中で遊びに夢中だ。でも大人になると子供の頃のように無心になって遊ぶことがなかなかできなくなる。
大人になると遊びは仕事と対立するものとされ、仕事の時間が大部分を占めて遊ぶことは片隅に追いやられてしまう。そしてわずかな遊びの時間でさえもなぜか効率性や生産性を追求して仕事に役立つようにと考えたり、無駄な時間の使い方をしたくないためにぎっしり予定を詰め込んだりする。そして遊んだ後は爽快で心地よい疲れではなく、文字通り心身ともにぐったり疲れてしまうことになる。
これで遊んだことになるのか。
そもそも遊びとはなんなのか。
改めて問われると答えに詰まる。
「荘子」は何物にも囚われれない主体的で自由な心の在り方を「遊び」といった。
確かに遊んでいるとき心は自由だ。そして自分から進んでやるものであって、他人から指図されてするものではない。何かに役立つとか生産的である必要も全くない。その行為そのものをただ楽しむのだ。
遊びに時間を使うと時間を何だか無駄にしたような錯覚になるが、むしろ時間をどれだけ遊びに使えるかが重要なのではないのか。いや、時間を使うと考えている時点で効率性とか生産性に囚われてしまっているのかもしれない。時間も忘れて夢中になれればそれでいい。
子供たちが無邪気に遊んでいる姿を見ているだけでもなぜか心が満たされるのはなんでだろう。無邪気さを見せる恥ずかしさがあるからなのか。大人になるとしがらみが邪魔をする。
自由を求めるのは遊びを求めているからなのかもしれない。