今日、新しい内閣が発足する。
昨日のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」を観ていて、現在の状況と明治維新後を対比してしまう。
明治維新後は新しい国造りということで、あらゆることを一から作らなければならなかった。その国造りという大仕事にかかわる若い官吏たちは、自分たちが当事者であることを肌で感じ、どんなに忙しくても大変でもそれを感じないほど仕事に没頭していたに違いない。渋沢栄一は後に「日本資本主義の父」と呼ばれるが、他に幾人もの「〇〇の父」がいたのだ。
そういう後世に何かしら形の残る仕事は、その当事者であることがある種の高揚感をもたらす。そういう人は活き活きとしているし、それは幸福のひとつであるかもしれない。当事者であることを実感して、それに没頭することで気分が高揚することは学校や職場などで多かれ少なかれ誰でも経験する。その充実感と高揚感を得られることは幸せなことなのだ。
今日発足する新内閣の閣僚たちは、こうした当事者であることを自覚し気分が高揚しているだろうか。また、新しい大臣を迎える官僚たちはどうなのだろう。
株式投資では充実感や高揚感は得られるのだろうか。
株価の上下で売買することは単なるスリルを味わうことであって、それによって高揚感はあるかもしれないが、何かの当事者であることで得られる高揚感とは異質なものだろう。後に残るのは虚しさかもしれない。
株式を買うということは、その企業の事業に参加することであり、その企業が目指す理念やビジョンに賛同するということでもある。その企業が事業によって成長し、成長による果実が株主に還元されたときに高揚感は得られるのだ。
実際、企業が成長していくのを見ていると嬉しくなるものだ。株式投資を続けている理由はそこにある。