株式はいろいろ分類される。
グロース株、バリュー株、割安株、成長株などなど。
そしてそれが意味することも人によって微妙に異なったりする。バリュー株にしても企業の本質的価値に比べて株価が割安と考えるのか、あるいはPERが10倍以下とかPBRが1倍以下ならばバリュー株だという人もいる。そういうことをあいまいにして話をしているので、どういう意味で言っているのか推察することが必要となる。
「バリュー株である〇〇は、・・・」
「この株は成長株なので・・・」
いずれにしろ何かしらレッテルを張りたがるのだ。なにも株だけではない。
だが、そのレッテルがいつも実態を表しているのかは疑問だ。
あの人は「優しい」と言われているとする。
だがその優しさはどんな状況でもそうなのか。もしその人が、他人に優しくすることで自分に害が及ぶという過酷な状況に置かれたとき、本当に他人に優しくすることができるのか。あるいは本性を現して真っ先に自分の身の安全をはかるかもしれない。そうだとしたら「優しい」というのは自分の身が危うい過酷な状況でない限りにおいて「優しい」ということになる。これが本当の意味で「優しい」といえるのかは怪しいが、その人は「優しい」というレッテルが貼られている。
このようにレッテルという言葉には物事を表層的に示しているだけという否定的なニュアンスがある。だがそういうニュアンスに気付かずにレッテルは貼られるのだ。そしてそれは本質からはズレている。
にもかかわらずレッテルに引きずられてしまう。本質を見ようとせずに表面的なものしか見ない。
今、コロナ禍というちょっと異質な環境にいる。こういう状況においては貼られたレッテルが独り歩きしやすい。そしてそれは剥がれやすく、よく見ればその本質が見える。
これは株式だけではない。
人も同じだ。
以前、こんな記事を書いた。
状況はまだ変わっていない。むしろますます本性が現れていると思う。