投資狂日記

自由を追求するブログ

意味不明な共通試験

大学入試改革の目玉とされていた記述式問題が見送られることとなった。

このグダグダ感は学生にとって迷惑この上ないだろう。

 

そもそもこの大規模な共通試験というのは必要なのか。

入学試験というのは学校が欲しい人材を選抜するために行うものだ。学校によって特色があって、それに適する方法で試験を行えばいいだけの話ではないのか。これは中学でも高校でも変わらない。なぜ大学入試だけこんなことになっているのか。

 

読解力が落ちている?

だったら授業で読解力がつくような教育をすればいいではないか。それが義務教育ではないのか。

そもそも読解力を試すテストをすれば読解力がつくようになるのか?テストを変えれば効果が出るというのはあまりに安直な考えではないのか。そしてその読解力とやらを1回の試験で判断するのか。

 

今は多様性が求められる時代だ。

それぞれの大学が競うべきはどういう教育をするのかにある。そしてどういう入学試験をするかはその大学の意思でもある。本来それすらしない大学に存在する意味などない。

 

大学生の就職で新卒一括採用とかもそうだけど、どうしてこう「共通」とか「一括」とかが多いんだろう。

こんなこといつまでもやってるから枠からはみ出した人が生きづらくなるのだ。

 

損失耐性

投資に損失はつきものだ。損失を恐れて投資することを躊躇するが、投資しないことには利益も得られない。

 

損失といっても実現していない含み損と取引を手仕舞いすることによる実現損がある。いずれも損失には違いないが、前者と後者では損失の感じ方が違う。

含み損は、いずれなくなるのではないかという淡い期待が混じっているが、それによって損失の痛みが和らげられる錯覚を持ち、長く忍耐力が試されることが多い。それに対し実現損はあきらめの境地で気分的には清々しくなる。

 

私は基本的に損切りしない派なので、含み損を抱えることはざらにある。そしてその含み損を抱える期間は2,3年になることもある。含み損を抱えることは確かに苦しいのだが、耐えられないほどではない。もともと時間軸を長くとっているので、株価が買った後に半値以下になることもありうることを覚悟しているからだ。

そしてその株を買ったということは、その前提としてその企業に魅力を感じたからで、株価が下がったからといってその魅力も下がったことにはならず、株価下落は手放す理由にはならない。

 

株価というのは短期的には感情の動きだと思っているので、それには距離を置く。気まぐれな感情に振り回されて疲れるより、含み損でもじっと観察し続けるほうを選ぶ。

そうしているうちに損失への耐性が身についたのかもしれない。

ただ、せっかちな人にはまどろっこしくてやってられないだろう。

完璧な方法など存在しないので、自分で損失に向き合わないといけないのが投資家の運命だ。