以前、こんな本を紹介した。
この本も面白い。
「現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないか。」と問いかける。
たとえば、食事をするのは栄養をとるためで、栄養摂取が食事の目的であることは確かだ。この目的を突き詰めれば、毎日カロリーメイトを食べたりサプリを摂取すれば十分生きていけるはずだが、それでいいのだろうか。食が持つ栄養摂取という目的を超える経験が人間の食には欠かせないものであり、そこに豊かさを感じることができる。
この豊かさは「贅沢」ともいえるが、それを楽しみ満足することを奪われている。つまり、目的をはみ出るものを許さないようになっているのではないか。
贅沢というと否定的なニュアンスがある。だが、贅沢することを浪費と呼ぶなら、人間はまさしく浪費を通じて豊かさを感じ充実感を得てきた。
フランスの哲学者ボードリヤールによれば、浪費は限界を超えて物を受け取ることであり、浪費は満足をもたらすという。そして満足すれば浪費は止まる。ところが消費には終わりがない。終わりがないから満足しない。だから延々と消費が続いていく。
こうした消費社会によって消費者になるように駆り立てられ、浪費による贅沢を楽しめなくなっている。浪費家ではなく消費者にさせられているというわけだ。
大量生産・大量消費という消費社会の悪循環を断つにはむしろ贅沢を求めることこそ大切ではないかという視点は興味深い。
そして贅沢の本質は目的から逸脱していることにある。目的から超越したところに自由がある。
これは「遊び」にも通ずる。
遊びは真剣にやるからこそ楽しいのだ。