投資狂日記

自由を追求するブログ

終わりの始まりにならなければいいが

ここ数年の世界情勢を歴史的な観点から俯瞰したらどう映るだろう。

 

これまでの歴史を振り返ると、様々な犠牲のうえに「自由」を獲得してきたが、最近ではその「自由」が「身勝手」に置き換わり、結果として「自由」が失われるのではないかと漠然とした不安が漂っている。

 

アメリカではトランプ氏が大統領経験者として初めて有罪評決を受けた。だが、トランプ氏自身は「八百長裁判だ」と主張し、裁判を政治的迫害だとみなしている。また、トランプ氏は前回の大統領選挙の結果も認めておらず、選挙結果に不満を持つ支持者たちに議会占拠を扇動した容疑をかけられてもいる。こうした容疑も否定することで有権者の支持を固めようとしている。

こうした司法をも政治化する姿勢がトランプ氏の支持者にも広がれば、やがて司法の判断がないがしろにされて法が機能しなくなることにつながるのではないか。もしそうなればその先にあるのは混沌であり、最悪だと内戦にすらなるかもしれない。

そういう意味で今回の裁判の評決がアメリカという国にとって「終わりの始まり」となる可能性すらあることも考えておく必要があるのではないか。

 

日本においても先日の選挙でつばさの党代表らが選挙妨害容疑で逮捕されたが、他者の選挙の自由を妨害しておきながらその行為を表現の自由だと平然と主張し、それを当然と思い込んでいることに不気味さを感じる。

これはネットでの反響を狙って過激な動画を投稿し広告収入を得ようとする迷惑系ユーチューバーと根っこが同じだからなのだろう。

 

自由は法秩序が機能しているからこそ成立する。

だがその自由によって法秩序をないがしろにすれば、自由を失うことにつながる。

 

現在が、自由な社会が終わる始まりに差し掛かっていなければいいのだが。