今日の日経新聞1面のトップは「中国が統制強化へ」というものだった。習近平体制になってまたさらに集権的になるようだ。
また、日本国内では放送法を巡る行政文書が波紋を呼んでいる。政権の意に沿わないテレビ番組に対し放送法の解釈を変更して政治的な圧力をかけようとしたのではないかという疑念が持ち上がっている。
権力を有する者は、自分への批判を嫌う。そしてその批判をしないように権力を行使する。
一般大衆にとっての自由は、権力者にとっては抑圧でしかなく、権力者が自由であるために一般大衆を抑圧するのだ。
これは国の指導者だけではない。
企業でも経営トップが君臨して権力を振るい、従業員を抑圧することがある。
権限が集中している組織は強そうに見える。だからこそ権力を欲するのだろうか。
権力というのは持ってみないとわからないものなのだろう。持ってみてはじめてその効果を知り、いつの間にか固執するようになっていく。考えてみれば恐ろしいことだ。
私は自由でありたいが、自由であるために他人を抑圧するようにはなりたくない。
権力を手に入れて他人にあれこれ指図できるようになれば気分はいいかもしれないが、それが幸福につながるとは限らない。
いつも思うのだけど、権力者は幸福から最も遠い存在のような気がする。
これまで権力という魔物に取り憑かれなかったことは幸運なことなのかもしれない。
さて、中国では統制強化のなか首相を退任する李克強氏は退任挨拶でこう述べたという。
「天の眼は、人が何をしているのか見ている」
権力に取り憑かれた人たちがその力で覆い隠そうとしても隠しきれるものではない。
いや、権力に取り憑かれているからこそそれがわからないのだろう。
そこに権力という虚しさがある。