東京五輪を巡る汚職事件はなかなかの根深さのようだ。組織のトップが絡む汚職事件というのはしばしば起きる。利権にまみれた醜悪さは傍から見ると気分が悪いものだが、当人たちはおそらくそういう感覚を持ち合わせていないのだろう。持ち合わせていないからこそそういう行為を平然とできるわけだ。
また、幼稚園の送迎バスで園児を置き去りにした高齢の理事長は会見の際、亡くなった園児の名前を何度も間違えるなど当事者意識がまるでないような態度に見えた。
その一方、先日亡くなった稲森和夫氏のような組織のトップとして見事な生きざまの人がいたりする。
こういう事例をみると、組織のトップに求められるものは何なのかを考えてしまう。有能さとか清廉潔白さとか決断力とかいろいろなリーダー論がある。
私は司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」で描かれているある人物が組織のトップの在り方として興味深いと思っている。
その人物とは陸軍の大山巌と海軍の東郷平八郎で、日露戦争の際にそれぞれ司令長官として指揮をとった。二人とも薩摩出身であり、薩摩にはもともとトップになったときの振舞い方というのがあったらしい。それは、優秀な部下を抜擢し、その人物に一切を任せてしまう。そして自らは能力などをひけらかすことはせず、普段はむしろぼんやりとしてみせる。ただ、いざというときは一切の責任をとる覚悟を持つという。
大山は参謀たちが作戦を練っているときも昼寝をしていたらしい。しかし戦局が悪化して参謀たちが浮足立ち混乱の収拾がつかなくなると、目を覚ました大山が「今日も戦(ゆっさ)でごわすか」ととぼけたようなことを言った。だがその一言で参謀たちが瞬時に冷静さを取り戻したという。東郷もぼんやりとしていて、部下からは東郷が有能なのか無能なのかすらわからなかったという。
ただ、大山は負け戦になったら自身も一兵卒となって最後まで踏みとどまる覚悟でいたし、東郷も戦艦三笠と共に沈むつもりで砲弾の飛び交う艦上に身をさらしていた。
優秀な部下に仕事を任せ、自身は目立たずただ責任をとる。これが単純なようでなかなかできる人はいない。
大山や東郷だけではなく薩摩出身にはリーダーとしての資質を持った人物が多いらしい。海軍大臣などを歴任した西郷従道もそうだし、なにより西郷隆盛がそういう人物だった。
そういえば稲盛氏はかつての薩摩である鹿児島出身だ。
何か通ずるものを感じるのは興味深い。