資本主義社会のもとでは、より良い商品・サービスをより安い価格で提供するため競争することになる。この「競争」という言葉が人々に何か引っかかるものを感じさせるような気がする。
「競争」というのは優劣や勝ち負けを競うことだ。すると劣った存在や負け組が生じるのは必然となる。誰もが勝ち組になれるとも限らず、誰もが負け組になる可能性がある。だからこそそれが成長の原動力となるわけだが、行き過ぎると不正や他者を貶めることによって勝者になろうとする者まで現れる。こうした競争がもたらす負の作用が大きくなることによって社会は閉塞感に包まれていく。競争社会では負けたら惨めになるし、勝ったとしても勝ち続けなければならず負けることの恐怖が常に付きまとうことになる。
「競争」という言葉が勝ち組と負け組の分断を生んでいるのだとしたら、別の言葉に置き換えてみたらどうなるだろう。
例えば、「切磋琢磨」という言葉はどうだろうか。
切磋琢磨とは、「学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。」だ。
この中にも競争という言葉があるが、「互いに励まし合い」ながら「共に向上する」という意味での競争であり、優劣や勝ち負けを競うものではない。資本主義が本来求める競争というのは、各々が「切磋琢磨」することではないのか。
成長よりも分配という風潮があるが、それは限られたパイの取り合いでしかなく、結局は全体が貧しくなっていくだけだ。また、優劣を競うだけの競争も格差の分断をいっそう広げることになる。必要なのは互いが切磋琢磨することで共に成長することなのではないかと思う。