ウクライナ情勢を見ていると、言葉というものの役割について考えてしまう。
ロシアによるウクライナ侵攻は「戦争」であり「侵略」だ。だがロシア当局は「平和維持活動」だと言ってのける。でもロシアのテレビ局で反戦を訴える勇気ある人もいたりする。
ある事象を言葉で表すと様々な表現の仕方ができる。そしてその言葉の表現は、それを発した人の思考の現れでもあり、その言葉によってその人の考えを推し量る。
言葉通りのことを思っているのか、それとも本心とは違う言葉を言わざるを得ないのか、わざと嘘を言っているのか。
言葉で様々な表現ができるうえに、その言葉の解釈も際限なくできてしまう。
そしていつの間にか言葉が独り歩きして、とんでもない方向へと行ってしまうこともある。
事実は重視しなければいけない。
だがその事実を解釈して言葉にすると無数の表現が出てくる。どの表現が正しくてどの表現が間違っているかは最終的にその人の価値観になる。
この価値観が衝突して争いをもたらす。
そしてその争いが酷くなるのは片方が頑なに思い込んでいるときだ。
いろんな考え方が存在することに気付こうとせず、自分の正しさを他人に押し付ける。
独裁者と独裁国家が危険なことはこのことに尽きるのだ。
自分の価値観を押し付けるというのは、別の見方をすれば臆病で小心ということだ。
自分と違う意見を極端に恐れ、遮断しようとする。
民主政治のもとでの政治家は常に批判の対象とされるが、だからこそそれが強烈な支持に変換されることがある。民主政治の指導者が能力的に劣っているとしても、あらゆる批判を常に受ける立場にいるという一点によって独裁者に勝るのだ。
言葉によって自分の価値観を表し、言葉によって他人の価値観を知る。
情報は誰かの価値観が反映されているものだ。だからこそ柔軟に受け入れる度量を持っていたい。