普段よく目にしてよく使うのに、よくよく考えると不思議な存在なのが「貨幣」だ。
500円硬貨は銅やニッケルの合金でできていて、硬貨そのものの原価は500円に満たないのに500円のモノと交換できる。1万円札は紙でできていて、その原価も1万円をはるかに下回るにもかかわらず、1万円のモノと交換できる。
モノとしての価値がない貨幣が価値あるモノと交換できるのはなぜなのか。
『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』という本に登場する岩井教授は、
「貨幣は貨幣であるから貨幣である」
という自己循環論法によって成立することが貨幣の本質だと述べている。
みんなが貨幣を貨幣と思い込んでいるからこそ貨幣として成立する。そのため、貨幣そのものにはモノとしての価値がなければないほうがいいことになる。もし、貨幣にモノとして以上の価値があるとしたら、貨幣としてではなく商品としてのモノとなってしまい、その時点で貨幣でなくなる。ビットコインが貨幣として扱われていないのは、将来の値上がりを期待している投機商品となってしまい価値あるモノとなってしまっているからだ。
貨幣とは、みんなの思い込みによって成り立っている幻想なのだ。貨幣の価値が貴金属や国の財産によって担保されているのではなく、”担保されていると思い込んでいる”にすぎない。幻想とは、現実にはないことをあることのように思い描くことだ。それによって、ただの紙切れや安っぽい合金を大事に扱うことになる。この思い込みは強烈で、特に日本人はそうかもしれない。日本でキャッシュレスがなかなか普及しないのも、もしかしたらこういうところにあるのだろうか。
それならその思い込みから目覚めたらどうなるのだろう。もし、みんなが貨幣だと思っていたものが貨幣ではないと気付いたら・・・。
ハイパーインフレというのが、貨幣の思い込みが極限まで薄れて元のモノとしての価値が前面に出てくることだとわかる。幻想がなくなり、残るのはただの紙切れや安っぽい金属片にすぎないのだ。
貨幣はみんなの思い込みというなら、それがいつなくなってもおかしくない存在ということになる。それでも人間は貨幣という幻想をたくさん得ようと四苦八苦している。果たしてこれがどれほどの意味があるのだろう。
貨幣というのは、ババ抜きのババのように手にしたとしてもすぐに手放したほうがいい存在なのかもしれない。そういう意味で貨幣を株式に換えるというのは果たして理にかなっていることなのだろうか。