投資狂日記

自由を追求するブログ

運について

投資に限らず日常生活では幸運と不運に巡り合う。運というのは自分ではどうしようもない。

 

自分は運がいいと思うか、と問われたらどう答えるだろう。

実際どうかはともかく、自分は運がいいほうだと思っている。そう思っていたほうがうまくいくような気がしているからかもしれない。

 

「運用」という意味は、そのもののもつ機能を生かして用いること、だ。「運」という字には、「はこぶ、うつす、動かす」というような意味がある。だから資産運用というのは金銭という財産をうまく動かして活用するということを意味している。

 

一方、「運」というのは意志を超越した巡り合わせでもある。運用というのは、こうした巡り合わせでもある「運」を「用いる」ことでもある。

だとしたら、その人のもつ運勢が結果を左右することになるのか。

運が結果を左右することがあるとしても、それだけですべてが決まるわけでもない。将来が不確実である以上、運がある程度左右するものの、その程度がどのくらいかはわからない。「くじの当たる確率が70%」と数字で確率を表せても、感覚的に当たりやすいと思えるだけで、運が悪ければ当たらないのだ。

当たりやすいと思ったにもかかわらず、当たらなければ「運が悪かった」と思うだろう。だがその「当たりやすい」と思ったことは本当に妥当だったのか。当たる確率70%のくじを何万回も繰り返せば概ね70%当たるのだろう。だがたった1回のくじで当たる確率70%というのは本当に「当たりやすい」のだろうか。

私は数学や確率の専門家ではないから、とんちんかんなことを言っているのかもしれない。でも感覚的にどうしても確率というものがしっくりこないのだ。

 

「運がいい人」というのはおそらくもともと期待が少ないのだ。当たる確率が70%のくじでも、そもそもくじというものが当たりはずれがあり、当たらないことがあるという事実を最初から受け入れていて、確率にかかわらず当たることにそれほど期待していない。だからこそ外れた時に運が悪いとは思わないし、当たったときには運がいいと思える。

結局は、運の良し悪しも自分の気持ちの持ちようなのだ。物事に対してどう捉えるか。いいようにもとれるし、悪くもとれる。

 

「宋史」岳飛伝の故事に、

 

「運用の妙は一心に存す」

 

というのがある。「何事もその機能が生かされてすぐれた効果を出すには、それらを活用する人の心一つにかかっている」という。

「運」の使い方もその人の心しだいなのだろう。