日曜日にNHK-BSで「欲望の貨幣論」というドキュメンタリーを観た。これは「欲望の資本主義」シリーズの特別編ということだったので非常に楽しみにしていた。
番組では「貨幣とは何か?」というシンプルな問いに歴史上の偉人たちから現代の経済学者らによる考察が展開されていく。非常に考えさせられる内容で見応えがあった。
貨幣という存在は、突き詰めていくととても不思議なものだ。
例えば1万円紙幣そのものには1万円もの価値はない紙だ。だがそれを持っていると1万円相当のモノと交換することができる。相手方はモノと引き換えに1万円と書かれた紙を当然のように受け取る。
紙幣には中央銀行の信用という裏付けがあるといわれるが、普段日常で紙幣を利用するとき中央銀行の信用なんて気にしていない。明日も1年後も10年後もその1万円紙幣でモノと交換できると思っている。ただ単にみんなが使えると思い込んでいるだけという非常に脆弱な状態で成立している。極端にいえば、目が覚めた翌朝には1万円札を差し出しても誰も受け取らないという事態になっていた、ということだってありうるのだ。
逆にいえば、みんなが貨幣のように使えるとの共通認識が成立するようなものが登場すれば、それが貨幣に取って代わる可能性もある。仮想通貨がそうなりそうだと思われたが、現状では貨幣としてではなく投機的な取引対象となってしまっている。
みんなが「お金」という貨幣に執着するのは、お金が増えることで選択肢が増えるからだ。「お金」を持っていればいざというときにあらゆるモノと交換することができる。自由になるには「お金」が必要だと思われているが、その「お金」はみんなの共通認識でしかない脆弱な状態にあるのだ。
果たしてこのような「お金」を持つことが本当に自由につながるのか。
貨幣は価値を測る一つのものさしであって、ものさしそのものに価値を見出し執着することに意味はないのではないか。
そして貨幣は共同幻想である。世の中は貨幣そのものに価値があると思い、せっせと貯め込もうとしている。そしてその姿はなぜか幸せそうには見えない。
共同幻想でもある貨幣を集めることで幸福を得たとしても、その幸福もまた幻想なのかもしれない。