投資狂日記

自由を追求するブログ

投機という言葉

「投機」というとマイナスのイメージがある。博打やギャンブルといったニュアンスが感じられるからだろう。

そもそもこの「投機」という言葉はどこから来ているのか。

 

投機という言葉はもともと禅宗の用語で「修行者の機根が禅の真精神にかなうこと。師弟の心機が一致投合すること。」を意味するらしい。

禅問答というのがあるが、師匠と弟子が問いかけ答えながら機を合わせていく。それを投機と言う。

だから投機には深い思索があって成り立っている。投機を意味する英語はspeculation(スペキュレーション)というが、この言葉にも「思索、推測」といった意味がある。

 

市場では売り手の思惑と買い手の思惑がぶつかり合い価格が決まるわけだが、このことに投機という禅の言葉を当てはめた昔の人には何か深いものを感じるし、そこにマイナスのイメージはない。

 

そういえば投機家というとジョージ・ソロスを思い浮かべる。ソロスはもともと哲学者になりたかったらしいから、投機家(スペキュレーター)というのは思索家でもあり彼にぴったりな呼び名ではないだろうか。

 

では投機と投資は何が違うのか。

私は「価格」に注目するか「価値」に注目するかの違いではないかと思う。

価格に注目してその変動から利益を生み出そうとするのが投機。市場でまさに売り手と買い手の思惑を見極めながら取引するのだから必然的に価格の動きを見ることになる。

一方、投資は価値に注目する。価値が増加するものに対して資金を投ずるということだ。バフェットが金や仮想通貨に投資しないのは価値が増加しないものとみているからだ。金は価格は変動するが、金そのものの価値というのは変わらない。金は決して銅や鉄にはならないしダイヤモンドにもならない。それに対し企業の発行する株式はその企業が成長すればその価値が増加する。その増加を見込んで資金を投じているのだ。

 

投資はよくて投機はいけないという人がいるが、別に良い悪いというのはなく、どこに着目しているかに過ぎない。どっちにしろ不確実な将来について賭けているのだから、どちらも広い意味でギャンブルなのだ。そして成果を得るかどうかは、期待値がプラスになるかどうかなどを含めた思索の深さなのかもしれない。