投資狂日記

自由を追求するブログ

投機か投資か

普段、「投資」といっても人によって意味合いが異なっている。いまだに世間の多くは投資といいながらそれが本質的に投機であることが多い。だから投資について話していても、相手が投機だと思っていると話が嚙み合わなくなる。そして投資=投機というその思い込みは強力だったりする。

 

そして「投機」にはマイナスのイメージがある。博打やギャンブルといったニュアンスが感じられるからだろう。そのために本当の意味での「投資」までもが投機と一緒にされて敬遠されてしまうのだ。

 

そもそもこの「投機」という言葉はどこから来ているのか。

 

投機という言葉はもともと禅宗の用語で「修行者の機根が禅の真精神にかなうこと。師弟の心機が一致投合すること。」を意味するらしい。

禅問答というのがあるが、師匠と弟子が問いかけ答えながら機を合わせていく。それを投機と言う。だから投機には深い思索があって成り立っている。投機を意味する英語はspeculation(スペキュレーション)というが、この言葉にも「思索、推測」といった意味がある。

 

市場では売り手の思惑と買い手の思惑がぶつかり合い価格が決まるわけだが、このことに投機という禅の言葉を当てはめた昔の人には何か奥深いものを感じるし、そこにマイナスのイメージはない。

 

では投機と投資は何が違うのか。

私は「価格」に注目するか「価値」に注目するかの違いではないかと思っている。

 

価格に注目してその変動から利益を生み出そうとするのが投機。市場でまさに売り手と買い手の思惑を見極めながら取引するのだから必然的に価格の動きを見ることになる。

一方、投資は価値に注目する。価値が増加するものに対して資金を投ずるということだ。バフェットが金や仮想通貨に投資しないのは価値が増加しないものとみているからだ。金の価格は変動するが、金そのものの価値というのは変わらない。金はずっと金のままで決して銅や鉄にはならないしダイヤモンドにもならない。それに対し企業の発行する株式はその企業が利益を生み成長すればその価値が増加する。その増加を見込んで資金を投じているのだ。

 

投資はよくて投機はいけないという人がいるが、別に良い悪いというのはなく、どこに着目しているかに過ぎない。どっちにしろ不確実な将来について賭けていることにはかわりない。

ただ、投資にしろ投機にしろ自分が何をしているのかが明確にわかっておらず、道理から外れた頓珍漢なことをしていたら失敗するのはほぼ確実だろう。

 

長期投資と定点観測

株式で長期投資をしているとその間は何もすることがなく投資の面白さを実感できないと思われるかもしれない。確かに投資したあとは売買頻度は少なく、究極的にはほったらかしでもいいわけだから何もする必要はないともいえる。

特に長期で投資信託などを積立投資をする場合はそれこそ定期的にすればいいだけで、相場動向などは一切無視したほうがむしろいいくらいだ。

 

ただ、投資信託ETFとは違って個別銘柄に投資するのであればまったくほったらかしにしてしまうのは危険だ。個別銘柄ではその銘柄特有のことで株価が動き、それによって思わぬ損失を抱えることにつながるからだ。

 

そこで、ほったらかしにするかわりに定点観測をする。具体的には企業の四半期ごとの決算書をチェックすることだ。これに毎季の会社四季報を読むことを加えてもいい。この定点観測をするためには会計の知識が必要となる。株式投資には会計の知識が必要と考えているのはこの定点観測をするためなのだ。

 

定点観測をすることで時系列の変化を追うことができる。売上の変化、粗利率の変化、人件費の変化などに限らず時系列で見ると新たな発見があったりする。もし悪い兆候に気づけば素早く手を打ち損失を回避できるかもしれないし、逆に良い兆候に気づけば大きな利益を得るチャンスにもなりうる。

 

注意すべきは相場動向についてはあまり気にしないことだ。あくまで企業の変化に注目すべきであって、相場自体の動きに惑わされると結局は短期売買の誘惑に負けて売買するようになってしまう。

いつも思うのだが、株式市場で株価は日によって激しく動くけど企業が毎日株価のように変動しているわけではないのだ。

 

また、定点観測するには時間的にその数も限られたものとなる。だから定点観測する対象は厳選しておく必要がある。深く知るには集中する必要があり、集中するからこそ深く知ることができる。これは一般的な分散投資の考え方とは対照的だけど、知らないからこそ分散するならば、より深く知ることで集中するのも合理的だと考えている。